謎の独立国家ソマリランド

ルポルタージュ:取材記者、ジャーナリスト等が、自ら現地に赴いて取材した内容を放送・新聞・雑誌などの各種メディアでニュースとして報告すること。略してルポともいう(Wikipediaから引用)。

 

 

どこまでを以って「取材」と捉えるかは議論が分かれそうだけど、何らかの伝えたい内容、いや、真相とでも呼ぶべき対象が明確となっている場合、その記事をルポと呼ぶのだろう。その点、紀行文には対象が無い。旅行した土地自体が対象と言われれば確かにそうかもしれないけれども、その対象の中には事件性が欠けているように思える。もし同じ旅行でも、謎という対象物があれば、それはルポに早変わりする。

 

さて、そうなるとルポというジャンルを読むのは実は学生時代以降ではじめてである。学生時代に社会学のメディア論の講義で読んだ「桶川ストーカー殺人事件」以来。高野秀行の著書は有名だし、クレイジージャーニーにも出演していたから、いつかは読んでみたいと思っていた。秘境への冒険はいつだってロマンをそそるもの。

 

 

「謎の独立国家ソマリランド

 

以前から興味はあった。

 

5年ほど前にこの本のハードカバーが発売された際、さすがにハードカバーを持ち歩くのが億劫で、しかも2,000円近くした為、いつか安価になったら買ってみるかな程度のつもりで流していた。そして時が経ち、先日再読した「人生の100のリスト」の中で著者の別の本「アヘン王国潜入記」が紹介されていた経緯から、ふと文庫コーナーへ行ったら、なんと文庫化されていたのである。この機会を逃す訳にはいかない。ページ数にして550ページ強。かなりのボリュームだが、「アヘン王国潜入記」よりもまず最初に読んでみたかった。

 

結果、中だるみすることなく、500ページがあっという間に過ぎていった。普通のルポと異なる最大の特徴は、「笑える」文体になっていること。真面目なのにどこかちゃらけている。そこに筆者の人柄が垣間見えて非常に面白かった。読んでいて思わずにやけてしまった。さすが高野さんである。

 

独裁政権打倒のクーデターが起きて20年経ったのに、未だに内乱が終結しないアフリカ最北部の国ソマリア。しかもソマリア国内はソマリランドプントランド、南部ソマリアと三国がまるで日本の戦国時代のように互いが敵対し、且つ共闘し均衡状態を保っている。しかもそのうちソマリランドは非常に高度な民主主義を国際社会の介在無しに実現している。だが実現のプロセスはもちろん、ソマリアの実情すら国際的には全く報道されていないのである。このソマリア実情を実際に内部に潜入し、源氏・平氏奥州藤原氏など日本史の武士勢力に比喩して面白おかしく、そして分かり易く記事にしたのが本書である。読み易い文体もさることながら、最大の魅力は「現地人に溶け込んだ生活」をいとも簡単に実現する著者の人格だ。

 

例えば、アフリカの民族はイスラムで禁止されている酒の代わりに嗜好品として覚醒植物のカートという葉を噛んでコミュニケーションを図る。日本で云うところの「飲み会」ならぬ「カート会」で各々が親睦を深める。カートをやると意識がクリアになる。集中力が研ぎ澄まされ何日も寝なくて大丈夫になる。更に人が恋しくなる作用もあるようで、ドラッグと酒の相の子のような存在だろうか。

 

ガタイの良い黒人が口の周りを緑に変色させるくらい大量の葉っぱを噛んで話合っている姿は滑稽だが、日本人からしてみればただの草にしか見えないカートを毎日のように、しかも噛む事を楽しみながら現地の人の懐に入っていく姿は凄まじい。だけど、どこか滑稽なのだ。カートを噛み過ぎて便秘になってしまった話を書くあたりにも鱗片が垣間見れる。でも誰も取材出来ていない真相をサラッと導き出す。まるで情報ってこうやって引き出すのだというお手本のように。

 

この本を読み終わって、現在「アヘン王国潜入記」を読んでいるのだけど、2冊の間に15年の差異があることから、比較してみると文体もいい感じに崩れており、読んでいて親しみが持てる。なんというか、15年経って肩の力が抜けたような感覚だ。それとも15年の間に何冊も上梓しているようなので、成長の痕とでも呼ぶべきなのだろうか。日記を読み進めているような感覚。スッと文章が頭に入ってきた。

 

結局のところ、文章は筆者の人格を色濃く反映したものであり、文章力などの技術より著者の頭をのぞき見したい感覚に魅かれるのだと理解した。辺鄙で特異な国に住む、我々と変わらない普通の人の思いや考えに興味を持つ著者の感覚を知りたかったのだ。また一つ良書と出会えた。満足である。

暴飲暴食。

これでもかという程食べて、これでもかという程眠った。だから眠れない。

 

疲れていたのだろう。毎週のように続く土曜のスタジオが終わり帰宅するとそのまま眠った。夏のスタジオではドラムは大量の汗をかく。でもドラムは運動ではない。あくまでも演奏なので着替えは上半身と下着だけ。外は意外にもまだ肌寒かった。汗で濡れた下半身は冷たい。ひんやりした冷気が寒さを助長する。なんで初夏なのに凍えなければならないのか。帰宅しそのまま倒れこむように眠り、今度は蒸し暑さで目を覚ます。風通しが悪く、オール電化の我が家では部屋は一年中熱を浴びている。自家発電機の熱はじわじわと家全体に包み込み、窓を開けていないと外から蒸されているかのような熱気を感じる。しかし、窓を開ければそれはそれで肌寒い。湿度も高い。決して心地良い気候ではない。

 

きっと疲れているのだろう。

 

体力を回復する為にとにかく栄養を補給し、眠る。栄養を補給?ただのストレス解消ではないのか。とにかく食べた。そして寝た。これを何度繰り返したのだろうか。夜に一回。目を覚まし昼に一回。そしてまた夜に一回。この三度目の補給がまずかった。誘われ外に呑みに行ってしまったのだ。寝過ぎてもはや貧血状態。顔は腫れ、歩けば目がちかちかする。だけど誘われてしまったから呑みに新宿へ向かう。一本数百円する串揚げとつまみの野菜を肴にビールを煽る。無駄に寝て体力は有り余ってるから酒が進む。どれだけ呑み、どれだけ食べたのだろうか。この瞬間は幸せである。だが、快楽を我慢出来ないツケはこの後一気に押し寄せる。浮腫む身体。寝付けない身体。それでも月曜の朝はやって来る。この現象、一体何度繰り返せば辞めることが出来るのか。

 

しかしまぁ、美味いものは美味い。

 

欲望は果てることがない。近い将来、尿から大量の酸が出ようが、血を吐こうが、糖が身体全体を覆っても、それでも酒が辞めれそうにない。そんな自分に恐怖する。気付けばまた帰りがけに一本。ほぼ無意識的にコンビニで発泡酒を買い、部屋のソファーで開けている。ビールではなく発泡酒にしているところだけがせめてもの救いか。いやいや、そんな些細なこだわり、何の得になっているのか。酒を飲んで何をそんなに忘れたいのか。後悔は尽きない。そして昼間の反動で眠れない。それでも眩しく爽やかな朝日はこの蒸し暑い部屋の頭上にも訪れる。やってしまった。この思いを包み込むように。

せっかちが止まらない。

仕事ではせっかちな人間ほど重宝されるようだ。

 

即断即決。

何手も先を読む段取りの良さ。

早寝早起き。

 

全部待つのが嫌いだからだろう。

そんな奴はきっと死ぬのも早い。

どうせダメなのだからと悲観的になるのは日本人に多い特性だと言う。

 

だったら死ぬのもさっさと決断すればいいのに、その場合だけモヤモヤする。

 

最初から口に出さなければいいのに。

下北沢three 〜LLL,Lが発表になりました。

レオニダではじめて下北沢threeに出させて頂きました。

 

ステージ前のふわぁっとした青とピンクの照明にミラーボール。そしてフロアを囲むお香の甘い匂い。呑みに来ていたから知っていたけど、ようやくthreeに出られる。ようやく出させて頂いたという感じ。ライブハウスというよりクラブに近いイベントの作り方で、和やかなムードの中で演奏することが出来ました。ライブ前に一瓶空けたのも実ははじめて。酔うと収拾がつかなくなると思っていたドラムも、いい酒の回り方をしてか緊張感がほぐれ、いつもよりリラックスしてステージに立てた。演奏していてキックの音が心地良くて、マイクで拡張しない素のバスの音がフロアに響くのが、叩いてる側からすると快感なのです。そういえば新宿JAMも同じような鳴り方をしていた。疲れていてもしんどくても、演奏してると楽しいものですよね。

 

さて、レオニダは7/5に「LLL,L」という企画を下北沢BasememtBarでやることになりました。BasememtBarで知り合ったLarry Laugh Landというレゲエ・ダブ要素の強い、踊れるバンドとの共同企画です。3つのLとレオニダ(leonida)のL。4つのL。

 

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その他にも、ZhertheZOOで対バンしたオルタナの盟友ASIROとファンクな不良少年少女パニックハウスの出演も決まってます。

 

ASIRO -5℃

ASIRO 『-5℃』 - YouTube

 

パニックハウス 物質小町

パニックハウス「物質小町」MV Full Ver. (手作り) - YouTube

 

企画まではあと48日。何を間違えたか、昨日ツイートした時に10日間ほど数え間違えていた。

 

 

公式サイトをレオニダの敏腕マネージャ、大林パヤ氏が作ってくれたので、ここに色んな情報を少しずつUPしていく予定です。

2018,07,05

 

昨日のドンギマりの大林パヤ氏です(写真中央)

 

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そして、このライブでレオニダの新しい音源も販売します。3曲入り。ライブでも御馴染みの曲です。ようやくドラムを叩いた音源が世に出ます。現在鋭意ミックス中。ジャケも製作中。いろいろ楽しい企画にしたいと思ってます。

 

発表までの数日間、告知時間を合わせたりフライヤーとかの準備をお願いしたり、タスクを確認したり。文化祭みたいで楽しいノリで当日まで持っていきたいです。とにかく、まずはサイトと対バンのツイッターを見てみてね。

出張が多い。

なぜか今週は様々な場所へ出向いている。

 

仕事でお茶の水〜神保町を訪れたのははじめてだったし、天王洲アイルなどの臨海地区へも出向いた。海岸線というのは見ているだけでも気持ちが清々しいもので、ビッグサイトから新橋へ向かうゆりかもめや浜松町から羽田空港を経由するモノレールなど、街ど真ん中や地下を走るJRではとても垣間見ることの出来ない海岸線に建つ工場のタンクや船着場、荷物の発着所に高速道路の渡橋がまるでミニチュアのように景色として流れていく。これぞ初夏の風景と言った感じなのだ。サンシャインや六本木の森タワーから街下を見下ろすのとはまた違った風景だ。電車が動いているから、景色も静止画の連写として動いているように見る事が出来る。

 

これで気温が暑くなければどんなに気持ちが良いことか。風もない。昼間は30度に到達すると言わんばかりに照り返しが身体にこたえる。出来ればもっと歩きたいのに体力も時間も無いからせかせかと電車で移動する。打ち合わせを入れ過ぎた。

 

いろいろな場所へ出向くとその分昼食も多種多様になる。昼食くらい。。。昼間だけが仕事中の唯一の楽しみなのだから。せめてゆっくり味わいたい。せかせか食べる程悲しいものはないのに。そんなに生き急いでどうするのだろう。昼休みの時間は決まっているのだから。時間内に終われば誰も文句を言わなくていいのに。早い事はわるくはないが、決して得ではないのだよ。

ぼくの哲学

アンディー・ウォーホルが好きである。

 

しかし3月に買って以来、2か月ものあいだ積読してしまった。

 

ぼくの哲学

ぼくの哲学

 

本が好きな人なら誰でも共感してくれると思う。

 

新刊でも古本でも、大型書店だろうとBookOffだろうと、好きな本に囲まれたときや大量の書棚の中から本を探しているとき、読書欲で言えばこの状態がピーク。メータを振り切っているから、あれも読みたい、これも読みたいとカゴの中は本で溢れてくる。それでもお財布と相談し辞めた辞めないを繰り返し、5~6冊くらいを買って店を出る。買った書籍をこの瞬間に一気に読み進めることが出来たら積読本は無くなるのだろうけど、この行為を繰り返すから家には積読本が溜まっていく。しかも買った直後の意欲はどこへ行ってしまったか。。。殊更、難解だったり、理解に苦しむ内容であったりした場合、ここでも辞めた辞めないを繰り返す。

 

そんな生存競争を勝ち抜いたサバイバー達が晴れて読了に辿り着く。お見合いだったら何件破断になっていることか。いや、破断の前に将来の嫁候補が積んで待っているのだから、それはそれで有りがたい状況かもしれないが。サバイバー達は気難しい顔をして待っている。気難しいから読まれない。積読されるにはちゃんとした理由があったのだ。

 

話を戻そう。

 

アンディ―・ウォーホルの思想はともかく、分かり易い。シルクスクリーンに有名人のアイコン。カラフルで馴染みのあるモチーフ。そして大量生産。分かり易いのにカッコいい。ありふれているはずなのに個性的。今の家に引っ越した時、よく分からないけど記念にとウォーホルの作品を買った。もちろん廉価品だけど迫力がある。以来、我が家のリビングには色の違う10人のマリリンモンローが鎮座しているという訳だ。

 

「ぼくの哲学」というタイトル通り、愛・美・死・下着など15の項目に対してウォーホルなりの考えが述べられている。。。のだけれども、読み易いようで文章がさっぱり入って来ない。一見するとめちゃくちゃなのだ。最終的に内容を読み進めるというよりは格言を拾っていくような読み方に落ち着いた。

 

言い得て妙なもので、なるほどなと思う一方、それって一体どういうことなんだろう?と首をかしげる内容まで様々だった。以下によくは分からないが印象に残った言葉を列挙しておきたいと思う。ごちゃごちゃと書くより、書いてあるそのままの内容をどう咀嚼するかが大切な気がしたからだ。

 

「欲しがらなくなったとたん手に入る【P38-1.愛(思春期)】」

 

「男の場合たいていは綺麗に見せようとしてやりすぎ、魅力が無くなるのだ【P74-3.愛(老いる)】」

 

「危険にさらされた美は美しさを増すが、美が泥の中にあると醜い【P93-4.美】」

 

「ぼくはいつも1番簡単なことしかしないし、1番簡単なことが最高【P114-5.有名】」

 

「考えは金持ちのように、恰好は貧乏品みたいにせよ【P142-6.働く】」

 

「今みんな寿命が延びて老人でいる時間が長くなってきているのだから、もうちょっと赤ん坊でいる時間を延ばすことを考えた方がいい【P148-7.時】」

 

「芸術家とは人が必要としないものを作る人で、その作ったものを人にやったら喜ぶだろうとどういうわけか思っているのだ【P192-10.雰囲気】」


どうだろうか。


意味はわからないものも多いが、なぜか刺さるような気がする。

 

これの前に読んだロバート・ハリスも述べていたが、アンディ―の絶頂期とも重なる60年代を称賛する人は多い。フラワームーブメントの時代。愛と平和の時代。ヒッピーの乱舞。多くの本は60年代を称賛し、テレビ番組は80年代を称賛する。どちらもただの美化された懐古主義なのだろうか。それとも本当に天国のような時代だったのか。

 

30年くらい経た後、2000年代~2010年代がメディアの中で何と言われる時代なのか。30年経って今の時代を称賛するメディアはきっとインターネットだろう。その頃には前時代的なメディアになっているはずだ。今の本とテレビのように。

Baby, Baby, Baby

これが世に云うところの五月病だろうか。

 

連休明けに職場復帰してからはや1週間。外は晴れ、陽は照り湿度も低くすがすがしい。けれどもなぜか身体が重い。

 

身体はもう梅雨に入ってしまったかのようだ。
だからか、ガチャガチャしている音楽を聴くのが疲れてしまった。

 

気分を高揚させる4つ打ちも、芯から盛り上げてくれるアッパーなドラムンベースも、移動中に聴けばうるさいと感じてしまう。煩わしい。BPMで表せば120以上の曲を聴く気にならない。そういう時期もあるだろう。

 

だけれど、食後にコーヒーとタバコを飲まないとどこか口寂しいように、移動中や帰宅後に音楽を聴かないとどこか物足りない。耳寂しいとでも言えばいいのだろうか。

 

という事でEverything But The Girlを聴いている。


彼らが98年にリリースした『82-92 Essence and Rare』は既存のメジャー曲をアコースティックアレンジして再録したアルバム。

 

まだブレイクビーツやハウスのような打ち込みを多用したサウンドへ移行する前の、所謂ネオアコと呼ばれる彼らの代表曲がピアノとコンガとボーカルだけのシンプルな布陣で聴くことが出来る。

 

何でもないシンプルな演奏とメロディーはどこか聴いていてどこか心が落ち着く。トレイシーソーンの少々低温寄りの優しいソウルミュージックのような歌声も音がスッと入っている一端を担っている。


「Baby, Baby, Baby」というAメロで始まる「Take Me」という曲がある。

 

Take Me

Take Me

 

「Baby」という単語にどれだけの魅力があるのか。「Baby, Baby, Baby」と呼びかけているだけなのに、耳に響く。耳に残る。この出だしだけで曲が好きになる。こういう時、英語はズルいなと思ってしまう。

 

歌詞も至ってシンプルだ。

 

私は孤独。だから手を取って一緒にどこかて連れて行って、と率直な英詩で表す。日本語でそのまま表現したら、どこか陳腐さが漂ってしまうけれど、英語であればそれがシャープに聞こえるから不思議である。

 

尚、原曲は90年リリースの『The Language of Life』というアルバムに収録されている。時代だからか、邦楽で云えばデビュー当時のドリカムのようなアレンジだ。まさに90年初頭。「Love Goes On...」や「The Swinging Star」を思い出した。「晴れたらいいね」とか。あんなイメージ。

 

Take Me

Take Me

 

出来る事なら緑のある場所でぼうっと聴いていたかった。なぜそれを長期休暇中にしなかったのか。今は人で溢れる通勤電車の中で聴いている。緑はどこにも見当たらない。