砂の女 -完全な反復-

 

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 

 言わずと知れた日本文学の最高峰。安部公房砂の女である。多分、昭和20〜40年代という時代感もあるのだけど、安部公房にはSF的要素が多様に含まれている。この時代、ゴジラをはじめガス人間第一号マタンゴなど東宝SF映画を多く出していたし、円谷のウルトラQが流行り始めるのも時代からすると砂の女の少し後。当時を生きていないから想像でしかないけど、安部公房は時代を彩る超流行の先端だったのだろうな。

 

名著も読む年齢に寄って感じ方は異なるから、読む時期はとても重要だ。

 

この作品、ストーリーは言わずもがな、昆虫採集目当てにある部落を訪れた主人公が砂の穴に住む閉じ込められ、そこに住む女性と生活を共にする。主人公は幾度となく逃亡を画策するが次第に自分の置かれている不可解な状況に順応し、逃げる意欲が不明になっていくという少々気味の悪い話。この辺にSF的要素が積み込まれている。

 

人間、嫌だとしても置かれた状況に順応する能力が本能的にあるのか、それとも自信がないだけなのか、こんな不可解なストーリーなのに万人に共通する点があるとすれば、まさにこの点だろう。

 

就職して1年目。ある程度は仕事を頑張ろうと思い入社したにも関わらず、理不尽な顧客、働かない上司、偉そうな先輩、窮屈な押し付け、、、と散々な状況は誰にでも訪れ、それはまるで小学六年生が持つ校内での天下が中学に入学した途端ヒエラルキーの最下層に戻され、年功序列という屈辱に耐えなければならないのと同じように、意欲は日に日に削がれ「辞めたい、逃げたい」という状況に追い詰められる。人生の五月病みたいなものだ。

 

それが二十代後半。

 

ところがどうだろう。

徐々に自分の居場所が確立され、全力で気を張らなくてもよくなる三十代、いつのまにか仕事を「辞める」意欲は薄れ、仕事をいかに「適当にやり過ごす」かに焦点が当たる。更に四、五十代になってくると時間の経過から妙な愛着さえ湧いてくる始末。また、今更仕事が変わるという恐怖感もあるだろう。結局元サヤが一番いいから変に動くな、という意見をバブル期に入社した世代の方から幾度となく伺った経験がある。

 

人間の意思なんて所詮そんなもので、途轍もない苦痛もいつかルーティンになっていれば自然と順応し、苦が楽に代わり、妙な愛着まで付いて回るのだ。これが世界共通なのかどうかわからないが、少なくとも日本人には共通しているのではないか。新しい一歩を踏み出すというのはそれ程大変な事なのかもしれない。年齢が行けば行く程に。

 

「完全な反復」が人を定住させる。身体も意思も心さえも。

 

そんなストーリーもさる事ながら、主人公が悶々と熟考するその表現も安部公房は凄まじい。

 

「他人の顔」という作品に出てきたのだが、セックスのことを「肉の沸騰」と表現した事には度肝を抜いた。こんなに生々しい、しかも言い得て妙な表現はあるだろうか。ふいに背後から鈍器で殴られた上に実は背後には誰もいなかったかのようなはっとした驚き。ストーリーよりも表現の潤沢さに感動する。

 

砂の女でも、やはり人に取って孤独は永遠のテーマのようで、「孤独とは、幻を求めて満たされない、渇きのことなのである」と書いていた。

 

反復は孤独を埋めてくれるのだろうか。

孤独とは諦めなのだろうか。

 

今年はもう少し安部公房を読み進めてみようと思う。