痴人の愛 -何時迄も。どうぞ馬乗りを

 

痴人の愛 (1949年) (新潮文庫)

痴人の愛 (1949年) (新潮文庫)

 

日本文学史に残るエロ本の最高潮が源氏物語なら、近代日本文学でそれを担ったのは谷崎潤一郎だろう。読むのは浪人期以来だけども、ナオミが主人も焦らして焦らして、これでもかと焦らし続けるラストは圧巻で、時間を忘れて約200ページを凄い勢いで駆け巡った。前回の宇宙の本に引き続き、また朝方まで本を読んでしまった。どんだけ暇なんだ自分。

 

物語は言わずもがな、「普通」の冴えない社会人、河合がカフェーで出逢った齢15の女給ナオミに一目惚れし、自分の理想の女性に仕立てるべく彼女を引き取り育てていくのだが、妖艶なナオミに翻弄され没落していくという話。

 

ストーリーはともかく、「左様なら」「やって頂戴」など、旧語の仮名遣いはどことなく風情を感じる。言葉に趣があるというのか。読めなくても文字から絵が浮かぶ。

 

話を戻して。

 

男はずっと馬鹿だ。

どれだけ女に欺かれても、理屈ではもうダメだと判っていても、性癖が入ると手に負えなくなる。

 

 その昔、ホリエモンLivedoorで巨額の富を得ていた時、ヘリだかセスナだかチャーター機の中で若い子集めて乱交したという話を聞いたことがある。都市伝説だったとしても、結局男はそうやって稼いだ金で女遊びをする。女からみれば馬鹿の一つ覚えにしか見えないが、それが男だから本当に仕方がない。

 

男のバカさは今も昔も変わらないようで、「よく世間では『女が男を欺す』という。しかし、最初から欺すのではない。男が自ら進んで『欺される』のを喜ぶのだ」と書いている。

 

最初はちょっと遊びのつもりで付き合ったとしても、めちゃくちゃ身体の相性が良かったりするとそのうち遊びでいられなくなり、相手にインセンティブを取られる。それでハマっている時に突然向こうから冷たい態度でも取られたものなら、男はもう絶望の淵で言いなりになる。

 

こんな経験、誰でも一度位あるのではなかろうか?

 

その「地獄のような経験」から立ち直れるかさらなる依存に陥るか、「痴人の愛」のラストで河合は地獄に打ち勝てなかった。

 

「人間と云うものは一遍恐ろしい目に見え会うと、それが強迫観念になって、いつまでも頭に残っていると見え、私は未だに、嘗てナオミに逃げられた時の、あの後恐ろしい経験を忘れる事が出来ないのです。」

 

ナオミから逃れられず、金も時間も生活もすべて捧げた河合は、でもなぜかどこか爽やかで、「こうなってしまった私をどうぞ嘲笑ってください」と言うが如く、奴隷の扱いに満足している。

 

女王様に馬乗りされてさぞ満足だろう。

 

ところで、物語の中で河合はナオミの浮気相手、浜田と和解し互いの苦労を労う場面がある。

 

所謂、競合だった相手と袂を分かち合う的なアレである。

 

実は自分も実体験でこれと似た経験があるのだが、仕事でも私生活でも、競合だった相手とは絶対に袂を分かち合うことはない。分かち合ったと思えるのは、自分が鬱積して溜めてたすべてを言葉に出してスッキリした気持ちが、それとすり替わってるだけだと思う。

 

谷崎はこの作品の後、同性愛とか更にそのエロティシズムを追求し続け、終いには源氏物語の現代語訳まで上梓する。

 

 

どこまで欲望に奥深いのか。

機会があれば読んでみたいものである。