お金がない。

どういう事だろう?

 

口座を覗くと残金がたった1,600円しかなかった。給料が振り込まれるのは毎月25日。今日は4月の29日。いや、実を言うと残金を確認したのは27日だ。僅か2日間の間に何が起こったというのか。家賃の支払いとカードの引き落とし、種々の前払い。立て替え分もあるからお金がないという訳ではないのだが、まさか30万円近くあった口座が一夜にして1,600円まで落ち込む様を見て、思わずATMの前でにやけてしまった。だらしがない生活をしてるなぁ、と。

 

人間、本当に無くなった時にだけ、その有り難みを噛み締めるようになる。お金、仕事、彼女、友人、食べ物、睡眠、そして家族。無くなるなんて想定もしていなかったものが、ふと突然無くなってしまった瞬間にとてつもない虚無を感じ、その後じわじわと絶望が押し寄せてくる。

 

死に至る病、絶望。

 

キェルケゴールがその著書の中で「絶望とは自己の喪失である」とも述べているけれども、ありふれたものの喪失が自己を腐敗せしめてしまうのであれば、つくづく人間とは単独では生きていけない生き物なのだなぁと痛感する。他者は自らを写す鏡であるとはよく言ったものだ。キェルケゴールが云う喪失とは、本来的にはキリスト教で云う所の神の喪失を指しているので、日常生活において唯一神の存在を意識していない日本人からすると、他者の存在こそが信じるべき拠り所なのかもしれない。なんて、ダイバーシティって騒がれてる昨今で、日本人を一括りで印象付けた発言すると怒られそうだよね。

 

今回、一時的にお金が無くなって、その存在と自分との関係性について考えようとしたけれども、実のところ「あって損はない存在」くらいにしか思えなかった。そりゃ、沢山あるに越したことはないけれど、手段であって目的足り得ないお金という存在に振り回されてしまうのは、前時代的な発想というか、バブル世代くらいまでだろうなと思わずにはいられない。民放の在都テレビ局っていうイメージ。これもまた怒られるか。

 

老後の為という理由で、生前に使い切れない程のお金を貯め続けるサラリーマン達と幾度となく会ってきた。そんなに貯めてどうするのだろう。でも他人に与えようとはしない。自分の為に家を買い換え、車を買い換え、ちょっといい保険に入る。基準は皆違うけれど、先に挙げたお金以外の存在の大半を無くした経験があるから、つくづく良好な人間関係を無くした時に人って破綻するよね。食べ物と睡眠は無くすのは簡単。摂取しなければすぐに欠乏に響くから。だけど人間関係を失うとどうしようもなくなる。すぐに手に入れられない。孤独には耐えられない。寂しがり屋の豚だから。

 

と言うことで、必要と思うボーダーラインの生活が出来て他人に迷惑をかけなければそれで良いのかなと。しかしそうは言っても1,600円がボーダーラインだとは到底思えないから、別の口座から振替るなり、誰かからお金を借りる等して遣り繰りしなきゃならない。だけど、複数人で飲んでると、お金が無くても何とかなってるという不思議な状況もこれまたあり得る。その場に錬金術師でも居たのだろうか。誰かが不足していれば誰かが補う。甘え過ぎてはいけないけれど、そういう関係も大事だよね。お金に限らず。最近、周りに色々頼ってばかりです。