目標。

何のために読書をするのか?という問いに村上龍は「情報に飢えているから」と答えていた。

 

当たり前と言えば当たり前なのだけれど、情報に飢える状況というのは、毎日同じような生活をしている社会人にとってはかなり稀有なことなんじゃないだろうか。

 

情報に飢える為には何かしら目標が必要になる。所謂「これがしたいからこの情報が必要なんだ」という類のやつだ。

 

けれども目標てのは生きることになんかしらの情熱を伴わないと自然発生的にわいてくるものではない。

 

自然発生的にわいた目標は幸福である。そう考えると「目標を定める」という言葉の使い方はなんともちぐはぐだ。定めるのではなく降ってくるのが理想だろう。

 

「純粋に楽しいからそれをやる」という状況はとうの昔になくなり、惰性で噛んでるガムみたいになんとなしに日常をやり過ごせてしまっているから、自分の中で目標とするものすら浮き上がらない。

 

逆に他人からのニーズで目標がわいてくる場合もある。最近の悩みはドラムが上手くならないことだ。それはメンバーからも指摘されている。だが、自分の中にこうなりたいという確固とした像がイメージ出来るかと言えば、実はまったく浮かんでこない。他責で定めた目標だからかもしれない。だから自分の中で情熱を持って目標がわいてくるのを待つしかない。その為に動いてみる。情報を集めたり、誰かに習ってみたり。

 

仕事も同様で、結局のところ上司から定められた指示を目標にして安寧する。大体の上司は部下自らの意志で仕事を進めようとする気概を求めるが、仕事だってやらされてる部分が大半なのだから、そうそう自発的に動ける訳でもない。

 

つまり他人が介在した時点で「楽しい」というメーターは消滅してしまっている。しかしそうも言ってられないから行動して再び情熱が降りてくるのを待つ。ただひたすらに待つしかない。

 

にしても「情熱」という言葉は使うとどこかこっぱずかしく感じるのは自分だけだろうか。

 

情熱を惜しみなく身体から放出している人を見ると痛々しくもあり、情熱を浴びたこちら側が疲れを感じることが多い。エネルギー過多で省エネで稼働したい自分の精神とにギャップを感じるからだろう。

 

それは羨ましいの裏返しなのかもしれないが、そういう生き方は自分には出来ないと思う。皮肉で表面を塗り固められた自分にとっては。

 

話を戻すと、最近は読みたいと思える本がなかなか見つからない。つまりは情報に飢えていないのだ。目標がないにも等しい。

 

でも活字には追われていたい。

 

そういう場合、先のドラムや仕事の話と同じ。

 

とりあえず読んで読んで活字を追いかけてそこから飢えを見つけるしかない。お腹いっぱいなのに美味しいものを探さなければいけないとは、なんとも皮肉な話だと思う。